常在芝上ージョウザイシジョウー

フットボールクレイジーによる、ゲームとか日常で感じたこと考えたことに関するあれこれ。ついったー→amtmgtt1208 詳しいプロフィール→http://profile.hatena.ne.jp/kojirou-fc/

FF15のエンディングを見た感想・考察

皆さんこんにちは、コジロウです。

最初にお断りしておきます、ネタバレを大いに含みますので、未クリアの方はお読みにならないほうがいいです。

 

今回は「FF15のエンディングを見た感想・考察」についてお話していきます。

この手のお話をする時の定番のお願いになりますが、今回僕がお話することは、数多くある考察の一つであって、あくまで僕はこう思う程度のお話なので、皆さんも「ふーん、なるほどね、コジロウはそう思うのね」くらいで受け止めて頂けるとありがたいです。

 

いやー、最後にプレイしたFFは12だったので、進化っぷりにただただ驚くばかりでした。

これからのFFは15みたくなっていくんでしょうね。

 

さて、賛否両論あるあのエンディング。

特にノクトとルーナの結婚式で終わるラストシーンは議論を呼んでいます。

ノクトが命を落したのに、最後天国で幸せに暮らしました、と取れる終わらせ方をするのは無責任じゃないかと。

その言い分もよく理解できます。

ただ僕ね、思うんですけど、あれって開発スタッフさんのメッセージとしては、「これでよかったんだよ、これは間違いなくハッピーエンドなんだよ」と言われているんじゃないでしょうか。

 

説明していきますね。

まず、ルシス王家が存在した理由は、「星の病を根本的に打ち破れる真の王(=ノクト)が誕生するまで、星の病から人々と星を守るため」でした。

歴代王たちは、ノクトが生まれて来るまでのいわばセットアッパーだったじゃないですか?

星の病を完全に治すことはできないにしても、進行を遅らせる存在とも言えますね。

その役割のために、魔法や武器召喚などルシス王家、というかルシス王以外は誰も持たない絶大な力を有していたわけで。

 

で、ノクトは運命通り、内心思う所はありながらも、真の王の務めを果たし、自分の命と引き換えに星の病(=アーデン)を滅ぼしました。

ここで、もしノクトがその後も生きていたら、どうなったでしょう?

言い方を変えましょう。

星の病を打ち破るために有していた絶大な力は、星の病が消滅したあとどうなるでしょう?

目的を果たしたんだから、手段はもう要らないということになりません?

もし、ノクトが存命して、ルシス王家が続いたら、もう誰もルシス王家に歯向かえません。

ルシス王家が「新たな星の病」となる可能性さえあったわけです。

 

あの星に現在暮らす全ての人々、存在にとって、ひいては未来に生まれて来る存在にとって、逆にルシス王家が脅威になる可能性を消した。

それがあのエンディングの本当の意味だったのではないかと僕は考えています。

確かにノクトの事だけを考えれば、悲しいエンディングでした。

でも「それじゃあノクトが浮かばれないから、せめて天国で最愛のルーナと結ばれよう」という意図を僕は感じました。

 

FF15のテーマは、「現実に基づいた幻想」。

現実世界で、脅威の去った後のルシス王のように超絶な力を持った存在があったら、絶対に悪用する人が出てきますからね。

開発期間を勘案するに、おそらくそういうところまで意味というか意図は考えてあると思います。

だからあの後の、あの星は、世界全体が共和制みたいな方向に進むのではないでしょうか。

 

以上、今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。

宇宙人と地球人

皆さんこんにちは、コジロウです。

今回は「宇宙人と地球人」というテーマでお話していきたいと思います。

今回はサクッといきます。

 

ここ数年、天文観測技術が発達したこともあって、「どこどこの銀河に地球とよく似た惑星発見」や、「どこどこの星に生命体がいる可能性発見」といったニュースを耳にすることが多くなりました。

 

件の「地球外生命体=宇宙人」という言葉。

不朽の名作、スタウォーズやその他SF作品には実に種類の富んだ宇宙人が出てきます。

そういうもろもろの生命体を十把からげて「宇宙人」と呼ぶじゃないですか?

僕は思うんです。

「いや、それ『人』じゃなくない?」と。

だってそうでしょう、スターウォーズのチューバッカとか、プレデターとか、2足歩行しているだけで、それ以外はどう見ても人じゃないですもん。

2足歩行すらしていない生き物が宇宙人と呼ばれることもありますよね。

で、通常、地球人って我々人類だけを指しますよね?

それはおかしいと。

だったら、犬とか猫とか、極論すればクラゲとかも地球人じゃないとおかしいと。

 

結論です。

地球を母星とする生き物は全て地球人である。

 

今回も短いながら最後までお付き合い頂きましてありがとうございます。

車暴走事故に思うこと~新しい職を作りましょうよ~

皆さんこんにちは、コジロウです。

珍しく今日は時事ネタを一つ。

昨日、埼玉県入間市でお年寄りの運転していた車が、ショッピングセンターの駐車場で暴走して、1人が亡くなるという痛ましい事故が起きました。

駐車場暴走、76歳女逮捕=4人死傷「ブレーキ間違えた」-埼玉:時事ドットコム

 

この出来事を知って、僕の考えたことは、

・もちろん単純な運転ミスではあるのだけれども、これだけを個別事例として考えるべきではない

・なぜなら、生理学上、どうしても咄嗟の反応が遅れる年齢のかたが運転するときに、誰にでも起こり得ることなのではないかと思われるから

・じゃあ、どうしたらいいか、なにか防ぐ手立てはないのか

という3つです。

 

都市部で暮らしていると、公共交通機関がその都市圏の毛細血管のように張り巡らされているので、根本的に車に乗らないという選択肢が取れます。

ただ、なにかしら体に不自由を抱えていれば、車で移動するほかないこともじゅうぶんあり得ますよね。

また、逆に地方では車がないとお話にならないという現実もあります。

 

ここで、僕からささやかなご提案を。

実現性については考慮していないことをご容赦ください。

職にあぶれている若者に、国(もしくは自治体)の助成を出して免許を取ってもらい、国(もしくは自治体)が引っ越し費用と住宅手当を出して、地方に派遣したらどうでしょう?

そういう職種を創設することはできないものでしょうかね?

 

なぜ、民間企業ではないのか、運転代行じゃいけないのかというところを少しだけお話しますと、たぶん民間企業にはできないことだからです。

だって、できることだったらば、ここで僕がこんなこと言わなくったってもうとっくに誰かが始めてるでしょうから。

 

今日、東京の一極集中が続いており、地方の活性化が問題となっています。

でもこういう仕事があれば、地方に派遣された若者は必然的にその地方に住むことになるわけですから、地域経済の発展にも寄与できると思うんです。

地方って住んでみたら、案外すごく住みやすい街って本当にたくさんありますからね。

で、採用された若者は公務員になるので、その若者の従事する仕事は公共サービスになるわけで、お年寄りのかたたちもいろんな意味で安心して利用できると思うんです。

あくまで理想論ですし、これは誠に手前みそですが、理論上は誰も損しない図式が成り立つと思うんですよね。

 

思うに、国や自治体の財源って本来そういう風に使うものなんじゃないでしょうか。

以上、今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。

 

参考文献・引用元

www.jiji.com

日本経済新聞 2017年4月23日朝刊 31面

「だけど」のあとに来ることば

皆さんこんにちは、コジロウです。

今回は「『だけど』のあとに来ることば」というテーマでお話していきます。

今回、多分に僕の主観と感覚のお話であります。

僕としてはそう感じるというだけで、だからそういう人たちが間違っているなどと申し上げるつもりは毛頭ありません。

毎度のお願いで大変恐縮ですが、「ふーん、コジロウはそう思うね」と受け止めて頂ければこの上なくありがたいです。

 

では本題に入って参りましょう。

「だけど」。

この言葉を聞かない日がありますでしょうか。

日本語を母語とする我々は、一定の年齢以上になれば誰しも意識しないで使いますよね。

僕ね、「だけど」の使い方で、聞いていてすごく違和感を覚えるときがあるんです。

日常会話だったり、たわいないおしゃべりで使う分には、聞いていて何も問題ないです。

ただ、仕事だったり趣味だったりで、真剣な議論・意見交換をしているとき。

あるいは悩み相談のとき。

よく聞くフレーズ。

「コジロウの言い分もわかるよ、だけどね、~」

ここで僕は「ん?」と思うわけです。

何が引っかかるか、ご説明します。

 

以下の例文をお読みください。

①「Aくんは運動はできる『けど』、勉強ができない」

②「Aくんは勉強はできない『けど』、運動ができる」

 

いかがでしょう?

①も②も言っていることは同じです。

ですが、どちらの言い方のほうがAくんを好印象として捉えられるでしょう?

おそらく②かと思います。

つまり、「けど」のあとに何が入るかで、同じことを言っていても相手に与える印象がガラッと変わるのではなかろうかと。

ということは、話し手の本当に伝えたいことは、「けど」のあとに来るものなんですね。

 

ここで、もう一度、上述したよく聞くフレーズを。

「コジロウの言い分もわかるよ、だけどね、~」

率直に申し上げましょう。

この言い回しを聞くにつけ僕はいつも、「それって結局、僕の言い分を理解しているように聞こえて、でもそれは単なるポーズであって、その実は自分の意見を言いたいだけじゃん」と思ってしまうのです。

うん、我ながらとんだひねくれ野郎ですね。

でも僕は思うのです、本当に相手の言い分に理解・共感しているのなら、「自分としてはこう思うよ、だけど、コジロウの言い分もわかる」という言い方になるはずだ、と。

 

一般的によく耳にする「日本人は自分の意見、主張を伝えるの下手だ」。

でも、今回僕が提起した観点から見るとそんなことはないでしょう、なぜなら「だけど」のあとに自分の考えを述べることって至って普通にあるんですもん。

 

思うに、真剣に意見をぶつけあっているときに相手の言い分を理解してるように見せる必要なんてないんです。

そんなポーズだけ取って見せることに何の意味があるんです?

だって、つまるところ自分の言い分を通したいだけなんでしょう?

だったら大人ぶってないで、最初から自分の主張だけ言ってればいいじゃないですか、理解してるふりをするなんて相手に対して非常に失礼ですよ。

失礼だし、わがままだとも感じるんですよね。

要は「自分の言いたいことは言うけど、人に嫌われたくないんでしょう?」って。

 

つらつら述べてきたお話の結論です。

本当に相手の言い分に納得したのなら、「~~だけど、そっちの言ってることもわかるよ」と、言いたいものですね、と。

滲み出る品性ってそういうものなんじゃないでしょうか。

 

今回も最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

初対面時のマジックワード

皆さんこんにちは、コジロウです。

今回のテーマは「初対面時のマジックワード」ということで、今回は手短にサクッといきます。

 

春ですね。

出会いの季節です。

初対面の人と話す機会が増えるこの時期、「何話したらいいかわかんない」という悩みを抱いているかたもいらっしゃるのではないでしょうか。

そういう時の定番トーク

「どこ住んでるの?」

この話の振り方って、現在の居住場所が知れるだけでなく、どんな人生を歩んで来たかさえもわかる、掘り下げていくと実は深く相手の事を知れる良い話題です。

ただ、ひとつだけ落とし穴が潜んでいます。

それは相手の言った地名や駅名を、自分が知らなかった場合です。

「へー、どこどこなんだ、何線だっけ?」とか「あー、どこどこが近いよね」とか、話を繋げればいいのですが、咄嗟にそんなうまい切り返しが浮かばなかったら。

今から、コジロウが編み出した完全オリジナルのマジックワードをお伝えしましょう。

 

それは・・・

(例え全く知らない地名が相手の口から出てきても、さも知ってる風に)

「はいはい、どこどこね、駅前にセブンイレブンあるよね!」

です。

 

うん、この手口、頭のいい読者諸兄なら、「いや、今の時代どこの駅前にもコンビニくらいあんだろ」とツッコミを頂いたかもしれません。

そうなんですよ、それがこの手口のミソです。

相手が純粋な人なら「そうそう、あるある、よく知ってるね」なんて答えが返ってきますし、「ううん、ファミマだけど?」って言われたら「あ、ファミマだったっけ?昔あそこセブンじゃなかった?」とも答えられるわけです。

相手に「いや、それ絶対適当に言ったっしょ?」とバレたら、その時は「うん、ぶっちゃけどこどこは知らない」と素直に答えましょう、笑って許してくれるはずです。

 

一つだけお断りしておきたいのは、別に嘘を吐きましょうとも知ったかぶりをしましょうとも申し上げるつもりは毛頭ないです。

要は「あなたのことをもっと知りたいんだよ、あくまでそのきっかけの一つが駅前コンビニトークだっただけだよ」という真意が伝わればいいのです。

ですから、相手がピュアな人で、本当にこちらがその地名を知っていると思い込んでしまっても、最後には「ごめんね、本当はそこ知らないんだ」と、「駅前にコンビニならどこでもあるでしょ?話を盛り上げるために出した小ネタだったんだ」と言えば、「ああ、この人は盛り上がりを考えて話してくれてるんだな」と、きっと思ってもらえるはずです。

 

以上、新生活が始まる上で役に立つか立たないか、ちょっとしたテクニックのご紹介でした。

今回も最後までお付き合いくださいまして、ありがとうございます。

首都弁という概念

皆さんこんにちは、コジロウです。

今日は「首都弁という概念」というテーマでお話していきたいと思います。

最初に僕からお願いが。

京都市圏とその他地域のお話になると、過度な東京賛美あるいは逆に東京罵倒に繋がりやすいですが、僕がお話したい今回の件については、あくまで東京都市圏を一つの地方として捉えています。

従って、地方がどうとか、東京がどうとかいう類のお話ではありません。

また、本日は2017年4月1日ですが、今回の記事はエイプリルフールではなく大真面目に書いています。

そこを踏まえた上でお読み頂ければ幸いです。

 

本題に入っていきましょう。

小ブログをご愛読頂いている皆さんご存知の通り、僕の趣味の一つはゲームです。

ゲーム繋がりで知り合ったフレンドさんも数多くいます。

ネットで知り合ったので、実際に会ったことはありませんが、皆さん気の置けない素晴らしい友人たちです。

日々の実生活の中で新たに知り合う人っていうのは、僕は東京都市圏在住なので、やっぱり同じ東京都市圏の人たちなんですよね。

でも、ゲームで知り合う、もしくは知り合った人は、北は北海道から南は佐賀県まで全国津々浦々です。

 

京都市圏以外の地方に住んでるフレンドさんとお話すると、どうしても方言のお話が出てくるわけですよ。

僕は、特別どこの方言が好きということはないので、方言を聞いたところで全く何も感じないですが、フレンドさんからは「あー、当たり前だけどコジロウ『関東弁』だよね」とか「『東京弁』のイントネーションだね」とか言われるわけです。

 

僕はこれに異を唱えたい。

僕が話している言葉は「首都弁」ですと。

 

詳しくお話していきましょう。

一口に「関東弁」と言っても、関東って広いです。

神奈川県西部の人と、群馬県北部、茨城県北部、栃木北部の人の話す言葉って同じじゃないです。

絶対イントネーション違います。

関東弁という大きな範疇の中に、それぞれ茨城弁とか栃木弁とかあるんですね。

関西で例えるとわかりやすいでしょうか。

大きな括りで関西弁の中に大阪弁(さらに細分化されていて河内弁などがあるようです)、京都弁などがあり、似てはいるけどもそれぞれ違うと。

関東もそれと全く同じ理屈です。

一方の「東京弁」ですが、これは東京の下町のかたがたが話す言葉でしょう?

「コーヒー」を「コーシー」って発音したりとか。

 

「首都圏」は厳密には、首都整備法に規定されている関東1都6県に山梨県を加えた地域の事を指します。

実際の就労場所の如何はさしあたり置いておき、東京都心が通勤圏内の地域を「東京都市圏」と呼ぶんですね。

「首都弁」というと、じゃあ関東1都6県+山梨県で話されている言葉じゃんってことになりますが、「東京都市圏弁」だと名称として長すぎるので、便宜上「首都弁」でいいかなと。

京都市圏に住んでいる我々は、神奈川中部と埼玉県北部、千葉県やもちろん東京都も含めて訛りに違いはありません。

 

こう言うとね、「標準語」でいいじゃんというツッコミを頂きそうなものですが、「標準語」はテレビのアナウンサーさんや、公共施設、交通機関での案内、公的な場の発言において話される言葉であって、僕たちが日常会話で用いる言葉とは違うんですよね。

標準語のイントネーションに基づいて発音されるのが首都弁ではありますけれどもね。

 

結論に変えて。

だから、何度でも主張します。

京都市圏で話されている言葉は「首都弁なんです」と。

 

以上、今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。

「ブレる」と「ズラす」の違い

皆さんこんにちは、コジロウです。

今回は「『ブレる』と『ズラす』の違い」についてお話していきたいと思います。

 

先日、「ストレスとどう向き合うか」という論旨の書籍を読みました。

僕自身あんまりストレスは溜まってないんですけどね。

ただ、どういう対処方法があるのか知識を持っておいて損はないというか、得しかないと思いまして読んだのですが、いやはや実にタメになりました。

 

本文中、「巨大なストレスには軸をズラして当たってみる」という趣旨の文章がありました。

ここで、ふと考えました。

よく「あの人言ってることの軸がブレブレだよね」なんて批判をされている人、周りにいませんか?

じゃあ「軸がブレる」のと「軸をズラす」の違いって何だろうと。

 

「自分としてはこう思う、こう感じる、こう考える」という軸って誰しも必ずあります。

ただ、その軸をあえて外して対処したほうが、上手くいく、楽にできることって案外多いです。

そういう時に、意図して自分の軸ではない目線を持ってみるのが「軸をズラす」なのではなかろうかなと。

逆に意図せずに場当たり的に言ってることがコロコロ変わるのが「軸がブレる」なんだろうなとも思いました。

 

難しいですけどね、人の評価は相対的なものしかなくて、ある人が「あの人は軸がブレている」と判断しても、別の人には「あの人は柔軟だ」とも取れるわけですからね。

ですが僕が思うに、「軸がブレる」人が柔軟ではありません。

柔軟っていうのは「軸をズラす」のが上手い人を指す言葉です。

だから僕はその辺りの履き違いをくれぐれもしないように、これからを生きていこうと思いました。

 

以上、今回はいつもと比べ少し手短ですが、今回も最後までお付き合いくださいましてありがとうございます。